「久留米かすり藍暦」の拘り・・。 その3  (久留米かすり製品の歴史と“藍暦の誕生”・・。)

今では、久留米の各メーカーは言うに及ばず、全国各地でいろんな「久留米かすり商品」が生産されているが・・この“ルーツ”はどこなんだろう・・?

私が自社に入って35年位経つが、当時は全国主要都市への「反物売り」が主だったように思う・・。
その頃、中央への反物売りが無かった弊社では、比較的安い反物を使って「モンペ」の製造をして販売したり、他産地の製品を仕入て地元の問屋事業を九州から中国地方まで販路拡大していたようである・・。

「モンペ」といえども、自社の製造工場を持っていて順調な販売をしていた。私も最初から、地元の筑豊、朝倉、浮羽、長崎方面と担当するようになり、“久留米商人”の基礎を叩きこまれた。
この頃からだろうか?少しづつ「手作り綿入れ袢天」にシフトを変更し、自社生産比率を一気に上げていったのは・・もちろん!販路も全国区になり、今では47都道府県の殆どに出張するようになったし、遠くは韓国、イギリスのロンドン、アメリカの西海岸にも送った記憶がある・・。

「袢天」の時代、「久留米かすり」を反物で売る商売も少しづつ減っていったのではなかろうか?段々と「着物離れ」や「委託販売」へと移行したような記憶がある。
この頃、久留米のメーカーや産地問屋は、「袢天」か?「久留米かすり」か?という二極化になっていたと思う・・。もちろん、弊社は「綿入り袢天」の製造・販売をフル稼働して工場も4つに増やしている。

時を同じく、「久留米かすり」の反物の変化が現れる・・。“製品化”の動きである!洋服にするには、糸、染め、柄、デザイン、伸縮率などの問題がある為、先人の苦労は大変なものだったろう。
最初の製品は大手の織屋さんが考案された「夏専用」のウェアだったらしい・・。

弊社の元専務も手裁断で、花柄のエプロンを数量限定で作っていたが、その残り布で、「かすりの袋」を作ったのが当時でも結構早かったように聞いてる。
でも、惜しいかなその時代に年中、「綿入れ袢天」の製造、販売に集中していた弊社の少数のスタッフには「かすりの袋」を量産するキャパがなかった・・。

今になっては・・あれだけ売れていた「綿入れ袢天」は急速に減少していく・・“住宅事情”や、“地球温暖化”など、問題も複雑だ・・。

ここに至り、弊社でも、新しい企画での「久留米かすり」事業の開始を始める。今の「久留米かすり藍暦」の誕生である・・。
他メーカーも数多く有り、産地としては最後の“ブランド化”では有ったが、最後だからこそ、“見えてくる”部分も多いし、リスクも最小に抑えることが出来たり、自分達の好きな部分を伸ばすことに集中出来るのも今の方が好条件が揃う・・。近々ではお客様の好みも多種多様になり商品力が問われるが、確固たる営業と企画スタッフの頑張りで更なるステップを確実に進めるような体制作りを目指しています・・。

「綿入れ袢天」も、昨年から今年に掛けては一気に売上を伸ばしている!“厳冬”と“震災仮設住宅”への需要である。少なくなったとはいえ、弊社の歴史を支えてきた重要なアイティムだし、確実な「ファン」を持っている優等生でもあり、これからも現在の数量を維持していくことだろう・・。

これからも「ありがとう」の気持ちを込めて「久留米発」の製品を発信していくつもりです・・。どうぞ、これからも宜しくお願い致します・・。

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