真の“久留米商人”とは・・。

「久留米」は江戸時代、有馬藩21万石の城下町として栄える。といっても藩の財政は苦しく、度重なる「筑後川」の氾濫に金が掛かったという。
川が氾濫すれば水田は少なく、湿地帯のような土地が多かった当時の  「久留米」であったらしい。その他もこれといった産業も無く、「ロウ」の原料になる「櫨」の栽培が多かったと聞く・・。そんな状況に現れたのが“久留米かすり”である・・。少女が考案したその「織物」は、瞬く間に久留米藩中に広まっていく・・もちろん!それを「商売」として成り立たせる人達も  出てくるわけである。「久留米商人」の始まりである・・!

我々はそんな先人の末裔でもあるのだが、昨今の「商売」は景気、季節の変化、資金力、不良在庫、人材確保&教育、出来のいい久留米かすりの反物の低下、などいろいろな要素が絡んでくる・・。どれを怠っていても大変な世の中であるが、もし、どれかひとつでも該当して不安があれば背伸びはしないで「止める」ことだ・・。私的には「分相応に継続」というポリシーの元、頑張って続けていくつもりだが、折角、先人達が築いてきた  歴史とストーリーがあるのだから、これを守りながら「分相応に継続」していくつもりだ!
前にも言ったが、なにも「久留米かすり」だけに拘っていく必要も無いが、繋がっていけるならその方がいいに決まっている!拘り続けた結果、抜けられなくなったのを結構見てきたから、尚更だ!

「久留米かすり」「久留米かすり」で、「ビィトン」や「○○レーベル」に成れるわけはないし底辺を支えている客層が移動するわけは無いと信じている・・。基本そこだろう!ここまで景気や気候が変化しているところで  「ジタバタ」してもしかたない。「真の久留米商人」は、気配を感じ取られず我慢して、時が来れば“爆発”するかのように頑張ればいい・・!しかし、  業界的にどれだけ残っているだろうか?

今日は“始祖祭”である・・。「久留米かすり」に携わる人間として毎年、  法要に参加しているが、先人達が残してくれた郷土の「財産」を後世に残していくためにも頑張らなくてはならない・・。

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